映画「否定と肯定」から酌むべき教訓(1=社会的議論の場に乗せないという原則)

 昨年発生した浜名湖遺体遺棄・連続殺人事件について、来年1月16日から日本帝國主義体制静岡地裁「本庁」にて人民拉致裁判(裁判員裁判)が始まるとのことです。この裁判は当然日本帝國静岡地裁浜松支部で行われるものだと思っていたら、起訴段階から実は日本帝國静岡地裁「本庁」に起訴されていたそうです。強盗殺人も含まれる2人への殺人事件であり、なおかつ裁かれる拉致被害者男性が全面否認していることからしても、死刑か無罪かを争う究極レベルの案件になりそうですし、また、全面有罪だったとしても死刑か無期懲役かの境界レベルとなるため、その意味での難しさも当然出てきます。人民拉致裁判における本来支部管轄案件について本庁に移送されるケースは、日本帝國横浜地裁小田原支部や日本帝國名古屋地裁岡崎支部では結構多いのですが、静岡の場合はかなり厳格に管轄越えをさせない運用になっていました。実際、同様の無罪主張・2人殺害という静岡県東部の案件では厳格に沼津支部で扱われています。まして、新たに労働審判を扱う地裁支部のリストとして浜松は入っているのに沼津は入っていません。浜松支部は全国の支部の中でも相当格の高い位置づけになっているはずなのに、それでいて死刑求刑予想裁判を本庁に投げようとする態度は、静岡市周辺の住民にも大ヒンシュクを買うことでしょう。浜松支部といえば、つい先日にも市内での一家殺人事件で死刑求刑もありえた案件で求刑段階から無期懲役だったという事案もありました。

 さて、最近話題になっている映画に「否定と肯定」があります。これは、ホロコースト否定論者男性歴史修正主義作家がホロコーストについて真実を語り、この歴史修正主義学者本人も批判した出版物により活動が阻害されたとして出版物を著した大学の女性教授を名誉棄損にて訴えた民事裁判についての実話から作られた作品です。そして、この男性作家は、被告側に立証責任があるグレートブリテン・北アイルランド連合王国帝國主義体制の法律システムを利用して、英国帝國主義体制内の裁判所に訴えるという手を使ったこともホロコースト否定論歴史修正主義学者側の戦略でもあったのです。裁判になることそのものがホロコーストがあったかなかったのかの世界的歴史論争になることを目論んだという意味を持ってくるわけです。
 一方で被告にさせられた女性教授側は、証人として自ら立つ覚悟も決めていたのですが、弁護側はその姿勢に待ったをかけます。というのも、法廷に立つことで歴史修正主義勢力と同じ土俵に立つ意味になり、それは世界の歴史修正主義勢力にとって願ったりかなったりの状況を作り出してしまうと考えたからです。また、ホロコーストサバイバーの法廷証言についてさせない方針を決めたのも、歴史修正主義作家側の攻撃的質問により矛盾点を突かれて確定したはずの歴史的評価に穴をあけるリスクの悪影響を重視したためです。確定したはずの世界レベルの歴史的評価について穴をあけてはならないという条件を満たすことが必要になったということで、被告の女性教授側弁護士の法廷戦術は、歴史修正主義作家による著作の矛盾点を一つ一つ丁寧に暴き出すことでした。ただし、これは大変骨の折れる作業であり、例えば、歴史修正主義作家の英語著作はドイツ語のナチス文書から自らの都合のよいように意図的な翻訳がされていたことについて、女性教授側弁護団が暴くといったシーンもあるのです。重要なのは、歴史修正主義的言論を「論争の場に載せない」ことを徹底するといった姿勢になるのです。
 日本帝國主義極右反動集団が従軍慰安婦や南京大虐殺を否定するとんでもない言論を世界各地で扇動しているのは周知の通りで、つい先日にもサンフランシスコに慰安婦像が立つような情勢にもなっています。この出来事に至る過程に、歴史修正主義思想に毒された日本帝國主義極右反動集団がロビー活動を働いて、むしろサンフランシスコ側を硬化させたといった実態もあります。即ち、従軍慰安婦や南京大虐殺は「歴史的事実」であり、論争の余地などない存在です。日本帝國歴史修正主義的反動勢力によっての身勝手極まりない「日本の名誉」のために対全世界歴史修正扇動など働けば、それは世界全体にとんでもない形で排撃され、かえって墓穴を掘るだけの話です。もっとも、サンフランシスコのあるアメリカ合衆国帝國主義体制とていばれたものではありません。何しろ、フェイクニュースだとかオルタネイティブファクトだとか扇動しているドナルド・トランプ逆徒がトップに立っているのです。ドナルド・トランプ逆徒の手にかかれば世界最悪の侵略国家であるアメリカ帝國主義体制のごり押しで歴史を平気で修正してしまう、などという悪夢のような事態が平気で起こりかねない側面があり、実際にイスラエル絡みで起きようとしている情勢が現実にあるのです。
 ただし、映画の日本語タイトル「否定と肯定」という訳語自体への批判があり、映画内容の訴えるべき本筋からすれば原題の英語にもなっているように(単なる)「否定」とすべきだったという意見も根強くあります。というのも、歴史修正主義論が社会的議論として大手を振るうことそのものが極めて社会的に害悪になることを訴える意味において、「否定と肯定」ではあたかも歴史修正主義論が社会的に認知される印象を与えかねないからです。「歴史的事実」は1mmたりとも動かしてはならず社会的論争の場に出すレベルからさせてはいけないという認識を人民社会全体で共有しなければならないということになるわけです。とはいえ、この「歴史的事実」が果たして真の意味で社会にとって有益なのかどうか?むしろ「歴史的事実」が社会全体にとってとんでもない害悪になっていたらどうなるのか?その観点からまた考えるべきことがあるのです(続)。

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